柔軟な働き方を実現し、生産性や従業員満足度の向上に繋がるフレックスタイム制。その導入を成功させる鍵は、法的に有効な「労使協定」を正しく作成・運用することです。しかし、インターネットで手に入る雛形を安易に利用した結果、制度が無効になったり、後々未払い残業代請求といった大きなトラブルに発展したりするケースは少なくありません。
この記事では、人事労務の専門家である社労士事務所altruloopが、協定作成でつまずかないための必須知識と、特に中小企業が見落としがちな重要ポイントを分かりやすく解説します。
結論:フレックスタイム制に労使協定は「絶対」に必要です
フレックスタイム制を導入する上で、労使協定の締結は法律で定められた絶対的な要件です。多くの担当者様が「就業規則を改定すれば良いのでは?」と考えがちですが、それだけでは法的な要件を満たしたことにはなりません。なぜなら、フレックスタイム制は労働基準法が定める「1日8時間・週40時間」という労働時間の大原則に対する例外だからです 。この例外を適法に認めてもらうために、法律は厳格な手続きを要求しています。
なぜ労使協定がないと制度が無効になるのか?
労働基準法は、フレックスタイム制を導入するための要件として、以下の2つを明確に定めています 。
- 就業規則等で、始業・終業時刻を労働者の決定に委ねることを定めること。
- 労使協定で、制度の具体的な枠組みを定めること。
この2つは、いわば車の両輪です。どちらか一方でも欠けていれば、フレックスタイム制は法的に成立しません。労使協定がない状態で、従業員が1日に8時間を超えて働いた場合、その超過時間はすべて時間外労働(残業)として扱われます。たとえ清算期間全体で見れば総労働時間に収まっていたとしても、日々の残業代が発生してしまうのです。これでは、制度を導入する意味がなくなってしまいます。
就業規則への規定だけでは不十分な理由
就業規則と労使協定は、それぞれ異なる役割を担っています。
- 就業規則:会社が一方的に定める、労働条件や服務規律に関するルールブックです。フレックスタイム制に関しては、「始業・終業時刻の決定を労働者に委ねる」という大方針を宣言する役割を果たします 。
- 労使協定:会社と労働者の代表が合意の上で締結する、特定の事項に関する契約書です。フレックスタイム制の具体的な運用ルール(対象者、清算期間、総労働時間など)を定める詳細な設計図の役割を担います 。
法律は、労働時間という重要な労働条件の例外を設けるにあたり、会社が一方的にルールを決めるのではなく、労働者側の代表との明確な合意を求めています。その合意を証明するものが、この労使協定なのです。
【要注意】労使協定の効力は「届出」と「周知」があって初めて発生する
完璧な労使協定を作成しても、それだけでは効力は発生しません。制度を有効にするためには、最後に2つの「起動スイッチ」を押す必要があります。
- 労働基準監督署への届出
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清算期間を「1ヶ月を超える」期間(例:3ヶ月)で設定する場合、締結した労使協定を管轄の労働基準監督署長へ届け出る義務があります 。これを怠ると、協定そのものが無効となります。なお、清算期間が1ヶ月以内の場合は届出義務はありませんが、労使協定の 締結自体は必須です。
- 従業員への周知
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締結した労使協定は、就業規則と同様に、すべての従業員がいつでも内容を確認できる状態にしなければなりません 。社内イントラへの掲載、共有フォルダでの保管、事業所内での掲示といった方法で 必ず周知してください。周知を怠った場合も、協定の効力が認められない可能性があります。
【雛形あり】フレックスタイム制の労使協定、これだけは押さえるべき必須項目
労使協定には、法律で必ず定めなければならない「絶対的必要記載事項」と、トラブル防止のために定めておくべき「任意的記載事項」があります。
①必ず定めなければならない「絶対的必要記載事項」とは
以下の項目は、一つでも欠けていると労使協定が無効になります 。
項目 | 内容 |
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対象となる労働者の範囲 | 制度を適用する従業員を具体的に定めます。「全従業員」のほか、「営業部の正社員」「開発グループに所属する者」など、部署や個人単位での指定も可能です 。 |
清算期間 | 労働時間を精算する期間です。2019年の法改正により、最長で3ヶ月まで設定可能になりました。起算日も「毎月1日を起算日とする1ヶ月間」のように明確に定めます 。 |
清算期間における総労働時間 | 清算期間内に労働すべき時間(所定労働時間)を定めます。この時間は、法律で定められた上限(法定労働時間の総枠)を超えて設定することはできません 。 |
標準となる1日の労働時間 | 年次有給休暇を取得した際に、何時間労働したものとして計算するかの基準となる時間です。「8時間」などと定めます 。 |
協定の有効期間 | 清算期間が1ヶ月を超える場合に限り、必須の記載事項となります。「本協定の有効期間は1年間とする」のように定めます 。 |
②後々のトラブルを防ぐために重要な「任意的記載事項」
以下の項目は法律上の義務ではありませんが、円滑な運用とトラブル防止のために、ほとんどの企業で定められています。
項目 | 内容 |
---|---|
コアタイム | 1日のうちで必ず勤務しなければならない時間帯です。会議やチームでの連携を確保するために設定されます 。 |
フレキシブルタイム | 従業員が自由に出退勤の時間を選択できる時間帯です。コアタイムの前後に設定します 。 |
超過・不足時間の取扱い | 総労働時間を超えて働いた場合(超過)や、満たなかった場合(不足)の処理方法を定めます。超過分は残業代として支払い、不足分は賃金から控除するか、翌清算期間に繰り越す(法定労働時間の総枠内で)かなどを決めます 。 |
【記載例】雛形をそのまま使うのが危険な理由とカスタマイズの勘所
厚生労働省などが提供する雛形は、あくまで一般的なモデルです。自社の実態に合わせてカスタマイズしなければ、思わぬリスクを生みます。
ケース1:対象者の範囲
- ありがちな雛形の記載(悪い例)
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第1条 対象者は、全従業員とする。
- 潜むリスク
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この規定では、本来フレックスタイム制になじまない部署(例:受付、工場ラインなど常に人員配置が必要な部署)や、シフト制で働くパート・アルバイト従業員まで自動的に対象となってしまいます 。結果として、現場の混乱や業務非効率を招く原因になります。
- 実態に合わせた記載(良い例)
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第1条 対象者は、正社員のうち、本社に勤務する開発部及び営業部に所属する者とする。ただし、パートタイマー、アルバイト、嘱託社員は本制度の対象としない。
ケース2:清算期間における総労働時間
- ありがちな雛形の記載(悪い例)
-
第3条 清算期間における総労働時間は、当該清算期間における所定労働日数に8時間を乗じた時間とする。
- 潜むリスク
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一見問題なさそうですが、これが最も危険な落とし穴です。労働基準法は、清算期間における労働時間の上限を「法定労働時間の総枠」として定めています。この総枠は「40時間 × 清算期間の暦日数 ÷ 7」で計算されます 。 例えば、暦日数31日の月(法定労働時間の総枠:177.1時間)で、所定労働日数が23日あった場合、上記の悪い例の計算式では「23日 × 8時間 = 184時間」となり、法定の上限を約7時間も超えてしまいます。この場合、協定自体が無効と判断され、未払い残業代が発生するリスクが極めて高くなります。
- 実態に合わせた記載(良い例)
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第3条 清算期間における総労働時間は、次の計算式によって算出される法定労働時間の総枠の範囲内において、当該清算期間の所定労働日数に1日の標準労働時間である8時間を乗じた時間とする。
【法定労働時間の総枠の計算式】 40時間 × 当該清算期間の暦日数 ÷ 7日
意外と知らない?労使協定の作成・運用でよくある3つの落とし穴
フレックスタイム制の導入に際して、多くの企業、特に人事労務の専門部署がない中小企業が陥りがちな3つの「落とし穴」を解説します。
落とし穴①:「1ヶ月を超える清算期間」の導入で残業代計算が複雑化する
2019年の法改正で清算期間が最長3ヶ月まで延長され、月をまたいだ柔軟な働き方が可能になりました 。しかし、これは
残業代計算の複雑化と表裏一体です。清算期間が1ヶ月を超える場合、残業時間の計算は以下の2段階で行う必要があります 。
- 【月ごと】の清算:清算期間内の各月において、実労働時間が週平均50時間を超えていないかを確認します。もし超えていれば、その超過分をその月の時間外労働として割増賃金を支払います。
- 【期間全体】の清算:清算期間の最終月の給与支払時に、期間全体での時間外労働を計算します。具体的には、期間全体の実労働時間から、手順1で計算した時間外労働を差し引いた上で、期間全体の法定労働時間の総枠(週平均40時間ベース)を超えた時間を計算し、割増賃金を支払います。
この2段階計算は非常に間違いやすく、勤怠管理システムなしでの手計算は現実的ではありません。
落とし穴②:時間外労働の協定(36協定)との関係を整理できていない
「フレックスタイム制を導入すれば、36協 なさい」と誤解しているケースが散見されますが、これは完全な間違いです。フレックスタイム制と36協定は、それぞれ役割が異なります。
- フレックスタイム制の労使協定:清算期間内で、「何が」時間外労働になるのかを定義するルールブック。
- 36協定:時間外労働をさせること自体を「法的に許可」してもらうための許可証。
たとえフレックスタイム制のルール上は問題なくても、計算された時間外労働が36協定で定めた上限時間(例:月45時間)を超えれば、それは労働基準法違反となります 。つまり、フレックスタイム制で時間外労働が発生する可能性がある限り、
36協定の締結・届出は別途必要なのです。
36協定や時間外労働の上限規制については、こちらの記事で詳しく解説しています。
落とし穴③:有効期間を定めず、制度の見直し機会を失っている
清算期間が1ヶ月を超える場合に必須となる「有効期間」ですが、1ヶ月以内の場合でも必ず設定することを強く推奨します 。
有効期間を定めないと、その労使協定は未来永劫有効となり、内容を変更するには再度、労働者代表との合意形成が必要になります。もし労働者側が変更に合意しなければ、一度導入した不利な(あるいは実態に合わなくなった)制度を、会社は半永久的に続けなければならないリスクを負います 。
「有効期間は1年間とする。ただし、期間満了の1ヶ月前までに労使いずれかから別段の申し出がないときは、さらに1年間更新するものとし、以降も同様とする」といった自動更新条項を設けておくことで、毎年協定を締結し直す手間を省きつつ、制度を見直す機会を確保できます。労使協定は一度作って終わりではなく、事業の変化に合わせて見直していく「生きた文書」として管理することが重要です。
よくある質問
Q. パートやアルバイトも対象にできますか?
A. 法律上は可能です。労使協定で対象者に含めれば、パートやアルバイトにもフレックスタイム制を適用できます 。しかし、勤務時間が固定されていることが多いパート・アルバイトの場合、始業・終業時刻を自由に決定させる制度は実態としてなじまないケースがほとんどです。業務内容や本人の希望を考慮せずに対象に含めると、かえって勤怠管理が煩雑になるため、慎重な判断が必要です 。
Q. コアタイムやフレキシブルタイムは必ず定める必要がありますか?
A. いいえ、これらは任意です。コアタイムを設けない「スーパーフレックスタイム制」も可能です 。スーパーフレックスは従業員にとって最も自由度が高い働き方ですが、一方で「会議の設定が難しい」「チーム内のコミュニケーションが不足する」といったデメリットも指摘されています 。全社一律ではなく、部署やチームの業務特性に応じて設定の有無を検討するのが良いでしょう。
Q. 労使協定の内容を変更したい場合はどうすればよいですか?
A. 労使協定を一方的に変更することはできません。変更したい場合は、新規で締結する際と全く同じ手続きを踏む必要があります 。具体的には、労働者の過半数代表者と変更内容について協議し、合意の上で新たな労使協定を締結し直します。そして、清算期間が1ヶ月を超える場合は、変更後の協定を改めて労働基準監督署に届け出る必要があります 。
Q. 労働者の過半数代表の選出で注意すべき点はありますか?
A. これは労使協定を締結する上で最も重要なポイントです。 労働者の過半数代表者は、①管理監督者でないこと、②使用者の意向に基づき選出された者でないこと、という要件を満たす必要があります 。選出にあたっては、協定締結の目的を明らかにした上で、投票や挙手、回覧といった
民主的な手続きを踏まなければなりません。
会社が特定の従業員を指名したり、親睦会の会長を自動的に代表者としたりする行為は絶対に許されません。 このような不適切な手続きで選ばれた代表者が締結した労使協定は、すべて無効と判断されます。過去の裁判例では、代表者の選出方法に不備があったことを理由に36協定が無効とされ、会社が多額の未払い残業代の支払いを命じられたケースが複数存在します 。
不適切な代表者の選出は、いわば「汚染されたインク」で契約書に署名するようなものです。そのインクに触れた契約書(労使協定)は効力を失い、フレックスタイム制という制度全体が根底から崩壊する、最大の経営リスクとなり得ます。選出プロセスを記録として残しておくことも、万一のトラブルに備えて重要です。
まとめ
フレックスタイム制の導入には、法的に有効な労使協定の締結が不可欠です。特に、対象労働者の範囲、清算期間、総労働時間といった必須項目を、雛形を鵜呑みにせず自社の実態に合わせて正しく定めることが、将来のトラブルを防ぐ第一歩です。
また、意外な落とし穴である「1ヶ月超の清算期間における複雑な残業代計算」、「36協定との関係整理」、そして形骸化を防ぐための「有効期間の設定」は、制度を安定運用させるための重要なポイントです。最後に、協定の有効性を左右する「労働者代表の適正な選出」と、効力発生の要件である「届出・周知」を絶対に忘れないようにしましょう。
自社の状況に合わせた適切な制度設計や協定書の作成に少しでも不安がある場合は、専門家である社会保険労務士への相談が最も確実なリスク管理となります。
社労士事務所altruloop(アルトゥルループ)では、全国対応・初回相談無料でご相談を承っております。人事労務に関するお悩みはお問い合わせよりお気軽にご相談ください。